バトテニTOP>>長編テキスト(プロローグ)>>002『屈折』




今を生きている事…
自由に身体を動かし、思った事を話し、自分の目で世界を見る事が出来る事…
それらは全て、人間が誰しも当たり前だと思っている事。
…オレ達も初めはそうだと思っていた。


―――でも、それらがとても素晴らしい事なんだと知ったのは、
不覚にも物語が始まった後。


この身体全てが、五体満足である事を誇って居られるという奇跡を、今、切に願っている。
―――そんな事、腐りかけたこの世界の裏では全くの無意味な事なのだと、
心のどこかで知りながらも。










BATTLE 02 『屈折』









「…あぁ!!勝手に俺の菓子食うなよ!!」
「こんな所に置いてあったからつい食っちまったじゃねぇかよ。」
「くそくそ宍戸め…それ好きだから残しといてたのに…。」
「あ~それ俺も持っとるから岳人に一つやるで?…だから怒らんで、な?」
「…マジ!?ありがとな、侑士!!」


8月5日。
バス乗車から一時間たったバスの中、その中でも、テニス部生の元気と言うものは衰えることがなかった。
元々日ごろの運動で鍛えている人間達。若さもある。当然といえば当然だろう。
そんな彼らテニス部一校だけでもそのざわめきは大きいというのに、
今回は青学、不動峰、聖ルドルフ、山吹、氷帝―――都内男子テニス強豪校5校が集まり、
2泊3日の日程で合同の合宿を行う予定になっていた。
合宿の担当顧問として乗車している教師陣(榊・竜崎・伴田)曰く、
『接点の少ない他校選手と戦う事でお互いを刺激し合い、心身共に成長しあおう』…ということらしい。
しかし、それは表向きの理由であり、本当はとある事情で中止になってしまった
関東、全国大会の日程を埋める為に急遽計画されたものである事を参加生徒大半が知っていた。
だからこそ、殆どの生徒が大会が出来ない苛立ちを発散させる為、
後輩や先輩と最後の交流をする為、大会で戦う筈だった未知の実力を持つ人物と戦う為……
それぞれが、それぞれの理由をもってこの合宿を楽しもうと半ば躍起だった。
そうしなければ2年は兎も角、3年は取り分け大きなイベントも無く1年が終わってしまう。


「……ほれ、バスの中であんまり騒ぐんじゃないよ。」
「何を言ってもこの騒ぎでは無駄だと思いますよ。竜崎先生。」

青学テニス部顧問―――竜崎は一番前の顧問席から身を乗り出し、
衰える気配の無いざわめきに再び静粛を促したが、ざわめきはその声をも飲み込んでかき消してしまう。
笑い声、驚き、悲鳴などが入り乱れたワイワイとしたざわめき。
きっと到着するまでこの調子だろう。
竜崎は「若いねぇ」と盛大に溜息をついて呟いた。その動きが彼女の年齢を物語る。
「…こんなものですよ、大人ぶっていても彼らは中学生の男の子なんですから…ね。竜崎先生。」
そんあ竜崎の左隣に座り、窓の景色を眺めていた山吹中テニス部顧問―――伴田は
持参してきたお茶を紙コップに注ぎ、竜崎に渡しながら軽く肩をポンポンと叩く。
諦めろという事らしい。
「伴爺!!………いや…しかしだね、それでは…・…。」
「…榊先生はどう思いますか…?」
尚も反論しようとした竜崎を押さえ、伴田は竜崎と通路を挟んで右側に座っている榊に話を振る。
榊は書類に目を通していたが、呼ばれた事で狼狽した顔を消し去り、すぐに視線を上げた。
「!!…あ…私ですか…?」
急に振られた事に驚いているのか。
顔はいつもの冷静さを湛えていたが、その声は酷く乾いていた。
もし、この声を生徒の誰かが聞き取っていたならば何かしらの疑問を持っていただろう。
しかし、幸か不幸かその声は誰にも聞き取られる事は無く。

「…………………彼らにも多少の休息は必要でしょう。今は彼らの好きにさせるのも良いかと。」
榊の一声に2人の表情が曇る。
『実は少しお話があるんです…。』
数時間前、突然に通告された声の伝えたものは彼らにはあまりにも大きかった。
全てを、黙って見続ける事…それが彼らが「やれ」と言われた全て。
死と政府の掲げる正義を認めること…それが彼らが「生き延びる」為の唯一の方法。
わかっていたって彼等にも理解できるものではなかった。

「我々は、彼等を最期まで見守らなければいけないんですよ…それが、顧問というものなのですから。」
「「………。」」
竜崎は何かを思い出したかのように再び席に腰かけた。
その脳裏には越前リョーマの父、越前南次郎の若かりし頃の姿が映って、消える。
「はぁ…まさか、息子もコレに参加しちまうとはねぇ…親子揃って運がない。」
うっすらと涙を浮かべながらも気丈に振舞う竜崎に、伴田は言いかけた言葉を飲み込んだ。
かつて、彼女がまだ体育教師として学校に関わっていた頃に受けた同様の告知。
心に負った大きな傷、深い負い目、若き日の誓い。
同じテニスを愛する者として、2度と後悔させるような決断を取らせまいと。
あの後、涙と共にあの少年を抱きしめ続けていた彼女の意思を命を賭けてでも守ろうと、
そう誓ったはずなのに…。
「…またこの決断が迫られるなんて思ってもなかったよ。」
竜崎が風吹く丘を望む。
伴田はすっかり飲み干してしまっていたお茶を注ぎなおした。
「…全てがあの時と同じ結末になってしまうのですかね……我々を含めて。」
そんな2人と、何も知らず騒ぐ生徒達を見、榊は現実逃避を兼ねた書類に再び目を通した。
内容など頭には入っていないし、ページは同じページを回っている。
あくまでもコレはカモフラージュ。榊は書類を読んでいる振りをしながら後ろのざわめきに耳を傾けていた。

「………せめて、一筋でも、希望があればいいのですが………」
もしここがパンドラの箱なら、せめて一筋の希望を。
そして榊は目を閉じた。
脳裏に浮かぶ自校、他校含めた生徒達の姿。

青学―――手塚や1年の越前など、未来のテニス界に貢献する有能な人材が多く見られた。
不動峰―――現メンバーが2年主体故、来年の関東地区を大いに期待させた。
ルドルフ―――独自の部活体制による実力強化、進展は目を見張るものがあった。
山吹―――実力を持ちながらも発展途上にあり、未知なる可能性が秘められていた。
氷帝―――全国区のサーブを持つ鳳、高い適性能力を持つ樺地、独特なフォームの日吉。
       青学に破れたものの、来年度、氷帝学園として自信を持って送り出せるメンバーが揃っていた。

彼ら1人1人が大切な生徒であり、大切な可能性の原石というのに、
その中で自分の元に帰ってくるのは…たった一人。
そしてその一人も大切な才能の若葉を摘み取られる事が確定している、非情な現実。
「「「…。」」」
それから3人はバスを降りるまでため息の一つも漏らさなかった。



*****



「さってと。それそろ行動開始かな~?」

顧問の3人が黙り込んで数分後。
前から2番目(1番前の席を顧問達が使用していたので実質1番前)の席でおとなしく座っていた千石は、
海岸線ばかりでパッとしなくなった車窓に飽きたらしく、大きく伸びをする。

数分前から着々と立てていた計画。
今までは竜崎がチラチラと後ろを向いていた為に発覚の危険が大きく、躊躇っていたのだが、
前を向き、静かになった今なら行動を起こしても大丈夫だろう。
リスクは限りなく0に近いと千石は判断した。
「…って事で。よろしくね、室町くんw」
室町と顧問達が座っている座席の隙間を通り抜け、バスの通路へと出る。
そして、機種変更をしたばかりの携帯電話を持ちながら、進行方向とは反対方向を向いた。
途端、千石の目に最初の順番が解らない程の少年の並びが見て取れる。
「うわぁ~ちょっと遅かったかなぁ…皆もろ移動しちゃってるじゃん。」
氷帝を始発として学校前を経由していく運行順番の関係上、
バス内では山吹、青学、不動峰、ルドルフ、そして氷帝の順に座るよう指示を受けていたが、
1時間も経った今ではそれも無視され、それぞれがそれぞれ好きな場所に移動して会話に花を咲かせていた。
『皆、好き勝手に移動して座っているのだから、オレが動いた時だけ怒るのって変ですよね?』
一応、移動するにあたって、見つかって注意を受けた時の言い訳を考える。
あらゆる事を想定しておいた方が焦らずすんでいいだろう。

「…あ、ちゃんと到着する時位は席についてくださいよ。」
辺りに散乱していた千石の荷物を纏め、手渡しながら室町が注意を促す。
『千石は山吹中のエースであり、副部長というポストにいる存在。下手な行動にでて貰っては困る。』
室町曰くそういうものらしい。
「後、南部長と話す時はちゃんとした理由つけないと危ないですよ?」
「うんうん。」
「………ちゃんと聞いてるんですか?」
「うんうん。」
「聞いていませんね?」
「うんうん。」
「ほら、そこは答えないで下さいよ…。」
「あぁ、メンゴメンゴww」
室町の出した鞄を受け取り、千石はにやりと笑った。
彼の目的はこれで最後になるであろう中学テニスの仲間達と記念撮影を撮る事。
「(…こうやって写真を撮れる機会なんて、もう無いからねぇ…。)」
山吹中の3年はこの合宿が終わった後、テニス部を引退する。
全国大会でもあれば別だったのかもしれないが、今年は全国大会共々、大会全てが中止されてしまった。
だから、この合宿はその為の最後の晩餐。あと少ししかない、中学テニス。
それらが何の色もなく終わってしまう前に、できるだけたくさんの写真を残しておきたかった。

「じゃあねww」

「って、ついに行っちまいましたね、千石さん。」
ルンルンと座席を移動し始めた千石を後ろ目で見送った後、室町は席へと深く座った。
「まぁ…今日は良く頑張った方ですけど。」
喋っていないと気でも狂うんじゃないか思うほどのおしゃべりである千石が1時間も沈黙を続けていたのだ。
自分から言わせれば、一人間として我慢が足りないが、彼にしては頑張った方。
それだけの『おあずけ』をした反動はさぞでかいだろう。
『もうこの席に戻ってくる事、再び沈黙する事は到着するまでないだろう。』
室町は早々に悟り、膝に抱えていた鞄を開いた席に置いた。
戻らないのなら使わない意味がない。
「…はぁ…。」
わかっているのにやりもせずにすぐに諦めてしまう自分に対して周りに聞こえない程度の溜息をつく。
可能性が無い訳じゃないのに、それを信じない、否定ばかりする自分への小さな絶望感。
我ながら諦めが早いと思う。
「…千石さんの隣って、運がいいのか悪いのか…。」
鞄が置けるし、席を悠々と使う事が出来ると考えると、運はいいんだろうなぁ。

「…はぁ…。」
室町は再び―――今度は明らかに周りに聞こえるような溜息を一ついた。



*****



「…で、この時に、ここで俺が左に動く。」
「そうすればきっと菊丸がこう来て、それで俺達が、こうする…チェック・メイト。」

「(おっ…ここでもやってるね、サインプレー…ホント地味だけど、努力家で生真面目だなぁ~。)」
席を立った千石はまず何処に座ろうかと辺りをきょろきょろと見回し、
ふっと、左斜め隣の南と東方(通称『地味’S』)に目を移す。
2人は何度も彼らの手で書き消しを繰り返されてきたのだろうしなびたノートを見ながら、
この合宿で試す気なのだろう新しいサインプレーについて話をしていた。
彼らはバスなどの移動中は決まって新しいフォーメーションの考察や部員との交流、
室町経由で手に入れたテニスに関する情報の解析研究をしている…
が、今日は何時にもまして楽しそうだ。
「(!!…あぁ…そっか。青学の黄金<ゴールデン>ペアと再戦できるんだもんなぁ…)」
今回の合宿の目的を青学の大石と菊丸に絞り、彼らの解析・攻略に時間を割くつもりなんだ…と、
千石は数日前に彼らの口から聞いた事があった。
”一度、自分達は大石秀一郎に勝っている”
その心の弱さが原因で負けたあの試合の屈辱を自分達の力で晴らす為なのだろう。
「(地味なりに負けず嫌いだからなぁ…)」
彼らは序盤から全く隙のない、完璧なプレーをしていた。
特に目立つ点は無いが、その分目立つ欠点も無い基本に忠実すぎるほど忠実なテニス。
…にも関わらず、菊丸のアクロバティックの前に翻弄され、十分な実力を出せずに終わった終盤。
地味で努力家で真面目ででも勝利には貪欲な彼らには、
そんな自己管理の無さで負けるような試合を認められないんだろう。
『今彼等に勝てるかどうかはわからないけれどね。』千石は余計な一言だと口には出さない。
「(練習メニューとか伴じぃに言われたもの以上にこなしてるし………)」

基本に忠実なのも根本が出来ていない上に更なる技術など乗せられないと彼らは理解している。
だから練習する。だから、基本を磨く。
派手さを求めず、只、貪欲に勝利だけを手にしようとする。
何処までも伸びる可能性を持った。強固な壁。

「…ふむふむ…勉強になるです…。」
「ん?」
その後ろの席で、壇が聞き耳を立て、必死でメモを取っているのが見える。
未来の山吹を背負って立つ事になるだろう、期待の新人。
「(檀くんも今度はオレ達の代わりにこの部活を引っ張っていく人材になるんだもんね…。)」
誰よりも頑張り屋で分析能力の高い壇の事だ。
例えどんな事があっても室町や喜多と一緒にこの山吹の色を守り抜いていってくれるだろう。
そう直感し、少し嬉しい気分になる。
そして、南や亜久津…皆で作り上げた山吹の歴史を安心して託せると思った。
「…そういや隣は…ははっ、亜久津も亜久津だね。また寝てるよ。」
壇の隣では千石の半強制的な誘いで連れて来られた亜久津が前の座席に足をかけ、窓に凭れて眠っている。
肩にかかっているジャージは恐らく壇のモノなのだろう。
サイズが明らかに小さく、前の部分に申し訳なさそうにかけられている。

『絶対にいかねぇからな。俺はやらなきゃ行けねぇ事があるんだよ!!』
『いいじゃん、亜久津~。いい思い出、作りたいんだ。』
『……いかねぇって言ったらいかねぇからな。』


数時間前の嵐のような説得を思い出す。
なんだかんだ言っても時間になると素直に亜久津はバスに乗ってくれた。
しかも前々から行く予定でいてくれたのだろう。ちゃんとテニス用具一式を持って。
噂では「テニスはもうしない」と言いながら、密かにテニスの特訓をしているって話だけど…
そこは彼に直接聞いても話してくればしないだろう。
…千石にとって、亜久津はいつも嫌だと言いながら、結局は収まってくれる、仲間思いの悪友だった。

「…喜多~…今度貸してよ、そのゲーム~。」
「えぇ、いいですよ。…でも、その前にこの前かしたゲーム、返してくださいよ?」
「あれぇ~まだ借りてたっけぇ~?」
「貸してましたよ。全く、忘れたんですか???」
「いやぁ~あのタイプのゲーム多くってさぁ~………。」
「ちゃんとしてくださいよ?俺、あの『LLR』とか、ああいう音ゲーは大好きなんですから。」
「えぇ~でもアレ、難しくないぃ?…音のリズムとかチョー取りにくいし~。」
「そうですか?不動峰の神尾とか見てると楽ですけど?」
「いや、あのリズムくんはねぇ~~…。」

視線を通路越しに変えると、取り留めの無い話をしている喜多と新渡米。
山吹の年齢を超えた絆の象徴。
―――それらは、いつもと変わらない、山吹中の風景。
「…やっぱり、合同合宿って言ったら、他校との係わり合いだよねぇ~w」
それぞれがそれぞれに行動する山吹メンバー達に何処となく話しかけにくい雰囲気を感じた千石は、
山吹の後方、青学の最前列に座ってこれからの部活運営の事や合宿での合同練習について話していた
赤澤、橘、手塚、大石の脇を通り過ぎる。
正直、この4人の会話の中に入っても部長の仕事についてよく知らない自分にはついていけない。
(千石は表記上扱いは『副部長』であるが、テニス部の誰ひとりとしてそう思ってはいない)

「……………千石。バス走行中の移動は出来る限り慎むようにな。」
「あ~はいはい。」
すれ違いぎわ、手塚に言われた言葉を聞き流す。
「(オレはじっとしていられるほど良い子ちゃんじゃないんで~)………メンゴ☆」
「………。」
言うと真に言うつもりが無かったのか、手塚はすぐに「仕方ないな」と言いたげに視線をそらした。
彼にしてはやけ聞き分けがいいな…と千石は一瞬思い、そして、大会のことを考慮してくれたのだろうと察した。
手塚も多少はこの騒ぎようの理由を気にしているのだろう。



「(おっ??)」
更に数席分視線と身体を後方に進ませると、
部長・副部長・海堂を除いた青学メンバーと不動峰の神尾、伊武、石田、そして氷帝の向日、忍足、
聖ルドルフの不二が一緒になって何かトランプを使ったゲームをしているのが見える。
王様だとか、番号などと言っているので、恐らく王様ゲームをしているのだろう。

「じゃぁ………………………ペア4番が…キス。」
「えっと…ペア4は……神尾と桃城、だな。」
「「!!」」
「バカ、キスとか男同士でやるもんじゃねぇだろ!!」「流石にソレはやめようぜ!!?」
「ヤダ」
「あ~ほら、試合とか…PONTA1週間分でもおごってやるから、な?」
「そうだぜ!?よりにもコイツとなんて、リズムに乗れねぇよ!!」
「…へぇ…じゃぁさ、デュエットしてくださいよ、先輩方。」
「越前…それもあんま変わってないとちゃうん?」
「だからなんでそんなきわどいところばっかついてくるんだよ、やらねぇぞ、俺は!」
「『やらない』で王様の命令を避けられるなら誰も苦労しないよなぁ、常識的に考えて。」
「あ~ぁ、それなのに自分だけ逃げようだなんて神尾って」
「解ったからもう言うなよ、深司!!」
「………マジでやるのかよ…。」

詳しく見ていれば、今回の王様ゲームは王様になったらしい越前と伊武が、
神尾と桃城にデュエット(曲名指定付き)を命令している。
桃城はそれが女性の歌である事と、更にそれをデュエットするという事にぶつぶつと抵抗を見せていたが、
どこかから現れた乾の「ならコレ、一気飲みだね」の言葉に、大人しく歌う事にしたらしい。
それを見ていた河村が冷や汗を流しながら、こっそりと「懸命な判断だろうな…」と呟いていた。
血の気が引きすっかり青ざめた桃城の顔は傍目に見ていて大変痛々しい。
「てか、その乾汁ってさぁ、そんなに」
『不味いの?』と千石は楽天的な考えをして、瞬間一言に飲み物とは表現できない複雑な匂いに
前後数秒の記憶が吹き飛んだ。
「うごっげ」
くぐもった声と驚きに先の言葉がでない。
強いてその匂いを言葉で表現するならば、『プレーンヨーグルトに野菜ジュースとお茶を突っ込んだような匂い』。
想像にもしていなかったそれに千石は無意識のうちに乾から距離をとる。
いつの間にか汁はなくなっていた。匂いも残っていない。
「あはは………。」

―――前言撤回。…本当に賢明な判断だ。



*****



「…やっぱり静かだな~コッチの方は。」
そしてやってきたバス後方―――残った氷帝、不動峰、聖ルドルフのメンバーは
それそれ仲間内の会話を楽しんでいるようだ。
皆、千石の方をちらりと見たが、構う事なく話を続けている。
話から先ほど向日のお菓子を間違えて食べてしまい相当に怒られた様子の宍戸は
「菓子食われた位であんなに怒るか?普通。」と隣に座っていた鳳、後ろに座っていた樺地に愚痴っていたし
(鳳は「人それぞれじゃ無いんですかね…?」と曖昧に濁し、樺地は「ウス」と返していた)、
芥川―――もといジローは最後部で滝の膝を枕にして寝ていた。
やられなれているのか。滝はニコニコと微笑みながらジローの髪をなでている。
視線をルドルフ側に向けると、木更津、野村が柳沢の『観月のモノマネ』にくすくすと笑いを漏らしている。
十八番なのだろうか?確かに口調や仕草がよく似ていて思わず千石も笑ってしまう。
その後、「そんなに僕のモノマネが好きなんですか…?」と、前の席であった観月に笑いかけられ、
蛇に睨まれたカエルのようになった柳沢はしばらく黙り込んでいた。
不動峰…はどうやら相談中らしい。内村、森の2人が自分達のダブルスについて話し、
石田と桜井、橘がそれに親身になって答えていた。彼等の団結をみるに恐らくは日常的な光景なのだろう。
「いいねぇ~こういうほのぼのチックって。」
バスの中に満ちている、明るい笑いと幸せ。
時々千石にとっては後方で乾汁による悲鳴が上がっていたりしたけれども、それもまた一興。
いい思い出も悪い思い出も皆集まって今がある。

「!!…あれ~?…こんなところにいるとは珍しい。」
「……………ん…千石か。」

そして。
千石はそんな彼らとも距離を離して全く別の雰囲気を出していた人物―――跡部の隣に腰を下ろした。
どこか具合が悪いのかは知らないか、跡部はこの真夏の時期にも関わらず長袖の制服を着、
視界の端に千石を捉えると億劫そうに声を返す。
寝起きだったのだろう。声は少し枯れていた。
「長袖?」
「冷えるからな」
どこから突っ込むべきかと思いつつ、明らかに異常な彼の格好にまず疑問を持つ。
「…風邪?」
そして、体調の心配も考える。
「いや?」
「でも」
「寒いって言ってるだろ。」
「てか、前で手塚くん達、会議やってたけど、参加」
「しねぇ。俺がいなくても進められるだろ。」
「あ、それじゃぁオレと少し話」
「うぜぇ。」

即答。
質問に跡部は視線を変えず、更に終始イントネーションの全く変わらない声でそれ全てを遮る。
それはまるで関わる事を避けているかのようなあからさまな言動。
「うはぁ~!今日の跡部くんマジ厳しいなぁ~ww」
氷帝と、山吹。同じ学校の人間ではなく、且つライバル校同士と言う関係を抜きにしても話が進まない。
立ち込める険悪極まりないムード。
恐らく跡部の周りに他校どころか氷帝の人間すらいないのは、
このどうにもし難いこの「不機嫌オーラ」の所為なのだと気づくのに時間はかからなかった。
芥川くん辺りなら気にしないのだろうが、当人は寝ているし。
「………む~………。」
普通の人間ならここで跡部の機嫌の悪さと素っ気無さに早々に席を離れるものだが、
なぜか千石はもう少し粘ってみようと思った。
理由は―――恐らく今日このバスの中で最も攻略しにくいと実感したから。

「なんで皆の輪に参加しないの?…目立ちたがりの跡部くんらしくもない。」
「俺様はうるさいのが嫌いなんだよ。」
「選抜合宿の時はアレだけ騒いでたのに?」
「…てめぇもうるせぇ。とっとと離れろ。」
太陽が右手の海に沈み始め、ゆっくりとオレンジ色に染まっていく車窓の向こうの景色を見つめたまま、
跡部はそう言い、邪魔だとばかりに手を振る。
「あ。ちゃんと返ってきた。……けど、ヤッパ冷たいなぁ~↓」
確か、去年のjr.選抜の時にも跡部は自分に対してこういう構ってくれない態度をとっていたが、
それでもここまで邪険に扱われてはいなかった。と千石は思う。
すくなくとも話を新身になって聞いている『フリ』をしているレベルでは聞いてくれていた。
『跡部くんは社交的ではないが、自分が失礼だと思う態度を自らとる人間でもない。』
選抜合宿で一通りの人間観察を行っていた千石は、疑問を確信に変えていく。
―――明らかに跡部は、おかしい。

俺に関わったら皆死んじゃうからさ…南も離れて?

「…離れろって言ってるだろ!聞こえねぇのか!!?あ~ん?」
「!! あ!?」
いい加減耐えられなくなったのか。
跡部はやっと千石の方を振り返り、言い出す言葉を遮って叫ぶ。
その顔にも声にも、先ほどまでの寂しさに満ちた感情は微塵も見る事はできない。
「…う、うん。」
逆に襲い掛かってきた、生まれ持って備わった”跡部らしさ”と言うか、王者の威厳のような感覚。
千石もそろそろ立ち去った方が懸命だと思い、立ち上がった。




―――その時。
そこに広がっていたのは不思議で異様な世界だった。




「な……皆寝ちゃってる………??」
会話を始める対数分前まで騒がしかったバスの中。
一体何時の間に静かになったのだろう。
顧問がいくら注意を促しても得られなかった、バスのエンジン音しかない空間がそこにはあった。
さっきまで話し合いをしていた筈の南も。
乾汁に恐怖していた桃城も。
散々王様ゲームに対して愚痴を零していた忍足も。
自分に睨みを飛ばしていた伊武も。
全員が―――正確には千石と跡部を除いた全員が眠ってしまっている。
「………………!!」
そして、不意に見てしまった視線の先。座席の合間。
そこにはテレビのテロ中継や立てこもりなんかでしか見た事のない、
顔全体を覆う不気味なガスマスクをつけた、運転手やバスガイド。そして、顧問達の姿。
一般人が、と言うよりも軍人が付けるイメージの強いそれは千石に強い違和感と、
同時に強い恐怖感を感じさせた。
以前一度どこかでこんな絶望的な光景を見た気がする。
確かこの後、どこかに閉じ込められて、首輪がついて…そして現実が”現実”では無くなろうとして…
…………………………。
現状を理解できず、言葉を失った。
この状況の否定できない危険性も、未来の悲しみも苦しみも、憎しみも、全てを知っている。
驚愕に目を見開く顧問達の顔の意図も何もかもを見据えることができる。解ってる。でも、動けない。
嘘だ、嫌だ、無理だ、出来ない、わからない、知りたくない、認められない―――
言葉だけが混乱する心を宥めるように浸透してゆく。

「……催眠性のガスだ。」
そんな千石とは対照的に、跡部は静まり返ったバスを冷静に見渡し、呟く。
ガスは生徒達に気付かれないように運転席の下からゆっくりと流されたので、
最も運転席から遠い後ろの席に座っていた2人の元にガスがやってくるのは比較的遅かったが、
その時間差など僅かなものである事など誰の目にも明らかで。
「え!??ちょ、なんでそんなk…」
混乱した気分を落ち着ける為に、一気に空気を吸い込んだのだろう。
千石は襲い掛かる睡魔に抗う事なく、紡いでいた言葉を途中にして意識を闇に手放した。
瞬間、がくりと身体が統率を失って崩れる。
「ったく!………ついに来たか。」
ぐったりとした千石の身体を隣の席にしっかりと座らせると、
跡部は意識が拡散して歪み霞む景色の中、前方の大人達の方を睨みつけた。
「…悪魔の、ゲームが。」
漂うガスの所為なのか、それとも本来のものなのか。
自分達を見つめるその笑みが歪んでいるように見え、 これ以上見たくはないと跡部はゆっくり席に座りなおした。
遅かれ速かれこの運命はあの紙を手にした時点でわかっていた事。
だから、ずっと計画を立てていた。準備をしていた―――生き延びる為に。

「…覚悟は、出来ている………俺は。」
その先を意識の中でつぶやきながら跡部はゆっくりと目を閉じ、
やがて、そのまま彼も眠りへと落ちていった。



*****



「テストプログラム参加生徒、40名の身柄を確認。
これより進路変更、プログラムエリア2-1……中芽津島に向かいます。」

全員が眠りについた事を確認し、運転手に扮した軍人はバスの進行方向を大きく変えた。
この合宿の―――いや、このプログラムの本当の舞台へと行く為に。







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